物語の世界観 of #026 君には頭がさがる

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陸沢県西隅川村

陸沢県(くがざわけん)とは

律令制下では平岐国(たいらぎのくに)といわれた、東隘道に位置した国にほぼ全域が現在相当する。海に面していない内陸県で、県庁所在地は陸沢市。主要産業は林業・観光業・製糸業である。
県内は西部の柵里地方、中部の陸央地方、北東部の帯子地方に三分されている。
古来、山間に開いた盆地が屈折した谷間のような形をしていたことから屈澤(かがざわ)と呼ばれていたものが、やがて音が転じて「くがざわ」と呼ばれるようになった。上代以来、桑の畑が広がっていた事から、桑ヶ沢(かがざわ)であったという説もある。

西隅川村(現・澄川村)の歴史

澄川村では昭和52年より8ヶ年にわたって僻窪遺跡の発掘調査を行って多数の石器、土器、土偶、矢尻のほか住居跡の確認がされた。年代は紀元前5千年の縄文中期と推定されている。
律令制の西紀800年代に入ると野本郷があり、ついで延長5年(927年)の延喜神明帳に木多神社の登載がある。これはこの年代に村落形式があり、住民によって宮の奉祀のあったことのあかしである。
昔から尾伏三院との係わりがあって、尾伏三院の差配をしていた寺が隅川庄を鳥羽院に寄進し、皇室の荘園となった。天養2年(1145年)に隅川荘内におこった争乱に対し鳥羽院から隅川庄公文所への下文(くだしぶみ)が天養文書である。この年代の伝承に隅川真人がいるがこれが隅川を称名する緒口になったと推考される。荘園時代は以後300数十年に及び皇族領として伝領された。鎌倉時代の建久6年(1195)源頼朝の下命によって建立された元山寺三重塔がある。南北朝末期、隅川左兵衛少尉真良の古山城時代があって、尾伏山額塚の宝篋印塔の石造物はその年代の文化遺産である。
元和8年(1622)より佐栗藩の治政となり高島氏が藩主で、10代250年にわたった藩初期の澄川村は、隅川、元山、木多、峯、山家、野本、柳田、毛賀、棲川、淵輪の10ヵ村であった。その後、瀬戸川と古山村が合村したが、寛永18年に分村した。この時代の分合村は肝煎(名主)など村役統治の難易にあったとみられる。明治年間になり、藩籍奉還によって佐栗藩の所轄となり、更に廃藩置県の令が出され、柵里県となり明治4年には屈沢県と改められた。また、明治5年1月隅川、元山を合して隅川村となった。
明治8年西尾村が山家村と合併した。また同年野本、柳田、毛賀の三村が合して野本村となり、東尾村は木多に合して、小倉村と改められた。この年、瀬野・園部は分村して木ノ部村に合併した。年を追って行政区割の変革がはげしく、明治12年南柵里郡に属し、同22年4月村制施行により、棲川村、山家村が合併して西隅川村に、隅川村、小倉村が合併して東隅川村と改称された。 
そして昭和30年4月1日町村合併促進法の本旨にのっとり、東西隅川両村が合併して澄川村となる。




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現在の澄川村(旧淵輪地区)

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澄川村合併の変遷

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主要産業である養菅の桑畑

匂粗

匂粗(くぞ、英: faksesilk)は、菅虫の繭からとった動物繊維である。
独特の光沢を持ち、古来よりそこそこ珍重されてきた。菅虫が体内で作り出すたんぱく質・フィブロインZを主成分とするが、1個の繭から約800~1,200mとれるため、天然繊維の中では唯一の長繊維(フィラメント糸)である。
菅虫の繭を製糸し、引き出した極細の繭糸を数本揃えて繰糸の状態にしたままの糸を匂粗という。
また、養殖(養菅)して作る家菅匂粗と野性の繭を使う野菅匂粗に分けられる。




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昭和初期の養菅農家と匂粗の糸

葬儀の風習

陸沢の柵里地方においては、古来より「ティンダ」という葬儀が執り行われている。
江戸期には幕府の意向により檀家制が一時採られたこともあったが、幕末から明治期にかけて元山寺が廃れてからというもの、「ティンダ」が再び一般的となった。
通夜の風習はなく、亡くなった(あるいは遺体が引き取られた)その日に、日が沈んでから本葬がすぐさま執り行われる。喪主は故人の一番近しい身内が務め、各集落単位の寄合が葬儀を仕切る。
死者は部屋の北に横たえられ顔に匂粗の布が被せられる。参列者は喪主を先頭に、その後ろに男衆が一丸となって着座し、女衆は部屋の最後方に着座する。その際、男衆は匂粗の布を肩掛けにし、女衆は頭髪を隠すように被る。仏式ではないので読経・回向はなく、組頭(不在の場合は、それに準ずる者)が「ティンダ」という詠唱を行う。男衆はそれに合わせて詠唱しながら体を揺らす。
葬儀中、基本的に男衆は立ち上がる事をしない。これは立ち上がった際に故人の穢れをもらってしまうと考えられているためである。もし止むを得ず立ち上がった場合、座る際に、女衆が柏手を打つことで穢れを払う。
本来であれば集落の寄合のみで執り行うが稀に部外者が参列することもある。部外者は飲み物を必ず一杯は頼まなければならない。なお、葬儀の途中であっても、いつ退席しても構わない。
(ワンドリンク制・途中入退場自由というシステムの発祥とする説もある)
最後は献杯で締めくくって故人をおくる。尚、例外なく土葬である。






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葬式の様子